2015年9月16日水曜日

鷲田清一「折々のことば」163 を読んで

朝日新聞朝刊一面に毎日連載されている鷲田清一の「折々のことば」、
2015年9月15日付け第163回に、女優杉村春子による次の言葉があり、
考えさせられました。

「何が足りないのかっていうふうに思うわけです。女が女をやるのにね。」

私はもち論役者ではないので、深いところはわかりませんが、人を演じる
ためには、その対象をある意味客観的に把握しながら、なおかつ、
相手の立場に同化することが求められるのではないでしょうか。

そう考えてみると、演者が演じる人物に物理的、社会的に近い存在で
あることは、かえって演じにくいことなのかも知れません。

日本の伝統芸能に思いを巡らせると、男が女を演じるものが多くあります。
長年の慣習ということが一番の理由でしょうが、異性が女を演じることに
よる特有の情趣、色気があり、それがその芸能の魅力でもあります。

この妖艶さは、肉体的に異なる立場の演者が、どうしても越えられない
はずの差異を自らの芸一つによって克服するところと、さらにはその芸の
奥底に女を客観的に見る目を持ち続けていることによって、滲み出て来る
ものではないかと、私には感じられます。

前述の言葉で杉村は、そのあたりの伝統芸能の背景も踏まえて、自身が
同性の女を演じる心得を語っているように思います。

でもこの言葉は、役者の心構えとしてだけ必要な言葉ではないでしょう。
例えば私たちが何か物事を考える時、一歩離れた客観的な捉え方が
なければ、正しく判断することは出来ません。やや唐突かもしれませんが、
この杉村の言葉から、そんなことを考えました。

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