2015年9月29日火曜日

桂米朝著「落語と私」を読んで

人間国宝で落語家初の文化勲章受賞者、最近亡くなった桂米朝による
落語入門の書です。

著作者としても、優れた仕事を残したと聞いていましたが、本書はそれを十分に
感じさせます。やさしく、分かりやすい文章で落語の奥義に触れ、読む者を飽き
させません。

私が本書を通読して強く感じたのは、米朝が落語の卓越した演者であると同時に、
優れた鑑賞者でもあったということです。それゆえにこの本では、演じる者の
視点と観客の視線がほどよく交差して、落語という一口に説明することの難しい
芸能の本質を、立体的に浮かび上がらせることに成功しています。

私が本書で一番興味をひかれたのは、講談、漫談などとの違いから明らかになる、
話芸としての落語の特色についてです。落語家が、日本人が和装で暮らした
時代の一般庶民と同じ服装で、扇子や手ぬぐいだけを身に着けて高座に上がり、
座布団にかしこまって正座して、おもむろに話し始める・・・

その話のスタイルは、説明を極力避け、幾人もの登場人物に成り切って、
変幻自在に立場を変え、それぞれの人物の仕種、声色、表情を再現しながら
話を進めて行きます。つまり、噺家本人の素の技量だけで物語を演出し、観客を
その世界に引き込んで行きます。

また高座と客席は、落語家が着座して物語るだけに、息遣いが触れ合うほどに
隣接して、演者は観客と言葉のやり取りをし、客席の雰囲気を直接感じながら、
その日の口演を行うという具合に、庶民的で演者、観客一体となって舞台を作り
ながら、その実、落語家の技量が全てを差配するというところです。

それゆえ落語の長い歴史の中で、幾多の名人が出現し、その名人の人気に
引っ張られて、庶民に寄り添う芸能としての落語は、幾度もの隆盛の時期を迎えて
来ました。

ところで、大正末期頃から映画の出現や、娯楽の多様化によって、落語の人気は
陰りを見せ始め、日中戦争以降の長い戦乱、戦後復興期の急速な価値と風俗の
変化によって、その凋落は顕著なものになったと言います。ことに上方(関西)では、
この芸能は存亡の危機に立たされました。

本書が文庫になってから約30年、今日では落語専用の寄席、天神天満繁昌亭も
誕生して、上方落語は新たなブームを迎えようとしているように見えますが、
他ならぬ今回の隆盛の基礎を築いたのは、桂米朝その人であり、本書を読みながら
その巨大な足跡に改めて思いを致したところです。

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