2016年10月21日金曜日

漱石「吾輩は猫である」における、銭湯で裸体を見ての吾輩の結論

2016年10月18日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載123では
銭湯での人間の生態を観察していた猫の吾輩が、突然ぬうっと姿を現した
髭ずらの巨漢の男を眼前にして、圧倒されながら家に帰る途中考えた結論を
述べる、次の記述があります。

「羽織を脱ぎ、猿股を脱ぎ、袴を脱いで平等になろうと力める赤裸々の中には、
また赤裸々の豪傑が出て来て他の群小を圧倒してしまう。平等はいくらはだかに
なったって得られるものではない。」

銭湯内の裸の男たちの一挙手一投足を、西洋的な価値観から冷ややかに批評
していた吾輩も、突然現れた髭もじゃの大男には肝をつぶされたようです。

しかし裸の付き合いというか、銭湯内で勝手気ままに振舞う男たちも、この巨漢
には一目置いてしまう。野性に帰っても、いやそれだからこそ、体格の
でかい者が他を圧倒する。所詮こんなちっぽけな空間においても、皆が同等の
権利を有するなどということはあり得ない、ということでしょうか?

ここで漱石は、普段は文明人としていっかど澄ましかえり、体面を取り繕う我々
日本人も、一旦衣を脱げばただの猿、平等なんて崇高な理念は絵空事に
過ぎないと、自分自身も含めて茶化して、笑い飛ばしているように感じました。

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