2016年10月2日日曜日

鷲田清一「折々のことば」533を読んで

2016年9月29日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」533では
作家堀江敏幸の小説「河岸忘日抄」から、次のことばが取り上げられています。

 ほんとうの寛容さはつねに戦闘状態にあるはずで、寛容にする側もされる
 側も、どちらもぞんぶんに傷つく。

私たちは他の人の話に、往々に「それわかる」とか「わかった」とか、肯定的な
相づちを入れたり、返事を返したりしがちです。

でもそれは相手に対して話の腰を折らないためや、とりあえず分かったつもり
になるような、皮相で受け流す返答の場合が多いように感じます。

でもそれが真剣な話であったり、物事であったなら、私たちは安易に「わかる」と
言うべきではないし、ましてや「わかった」こととしてやり過ごせるものではないと、
このことばは伝えてくれているように感じます。

「わかる」ということは、相手の立場に立って受け入れること、相手を全身全霊で
肯定することでなければならないのでしょう。

そう考えると私たちは常日頃、いろいろなことを生半可に理解したつもりでいる
ことが、随分多いように思います。

分かりやすい例を挙げてみると、たとえばメディアの感情に訴えかけて来る
演出に対して、私たちはすぐ理解したつもりになって、押し流され易いように
感じます。

最近言われる、障がい者の”感動ポルノ”なんて身も蓋もない言葉も、そのことに
深く関係しているように感じました。

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