2020年5月28日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1812を読んで

2020年5月11日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1812では
NHK・Eテレ「SWITCHインタビュー達人達」(4月25日)での噺家・柳家喬太郎との
対談から、美学者・伊藤亜紗の次のことばが取り上げられています。

  「身の回り」という感覚がなくなって、共有
  物が増えるんじゃないか。

この美学者が、視覚がないと世界はどんなふうになるかを考えるワークショップを
開いた時、得た洞察の一つだそうです。

なるほど、「身の回りのもの」とは、当人の視覚的認識によって、存在を保証された
ものなのでしょう。なぜなら、たとえ個人所有の特定のものを持っていても、見て
在る場所を確認出来なかったら、すぐに用いることが出来ないのですから。それ
より、幾人かで共有した方が、ずっと合理的に用いることが出来ます。

このように、「身の回りのもの」が私たちの視覚によって初めて保証されているの
なら、見ることが出来なければそれらの品へのこだわりや所有欲も生まれず、その
ような状況は、私たちの日ごろの価値観からは物足りないものに感じられるで
しょう。

でも逆に、「身の回り」へのこだわりのない世界に慣れると、他の人とものを共有
することによって満足を得、ものに関わるわずらわしさや、欲求に囚われること
なく、平穏に生きることが出来るのかも知れません。

では一体、どちらが良いか考えてみると、幸か不幸か私たちは、視覚という感覚
器官を持ち合わせているのですから、その能力の恩恵にあずかって、「身の回り
のもの」を愛でる、わずらわしさは伴うものの、ある意味豊かな生活を送るのが
相応しいのだと、私は思います。

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