2018年1月29日月曜日

「本谷有希子の間違う日々 聞くは恥、ではなく」を読んで

2018年1月22日付け朝日新聞朝刊「本谷有希子の間違う日々」では、「聞くは恥、
ではなく」と題して、最近とみに耳にしたり、活字で目にする機会が増えた、外国語の
発音をそのまま日本語に置き換えたようなカタカナ語について、筆者が感じるところ
を、自らの使用機会も踏まえて語っています。

私もこの違和感を伴う気持ちは、よく分かると感じます。その言葉を多く用いて話す
人や文章の中に散りばめる人は、きざに見えたり、薄っぺらく思えたり・・・。

確かに昔からの外来語は、長い間使われて来てよくこなれているからかも知れ
ないけれど風格があり、カタカナ語で表現すべき必然があるように感じて来ました。

また外国語が初めて日本に入って来た当時の人々は、苦心してその外国語の意味
に相応しい訳語を編み出し、知識としてのその言葉がこの国に定着するための
大きな役割を果たしたと思います。

あるいは戦時中には、むやみに敵性外国語を使用してはならぬと、定着した外来語
を無理矢理日本語に置き換えて、滑稽な表現が横行していたこともあったと、何かの
書物で読んだこともあります。

そのような外来語を巡る歴史もあって、私たちは近頃益々目立つようになった、安易
なカタカナ語の横溢を苦々しく感じるのではないでしょうか?

しかし考えてみれば、現代の社会はインターネットの普及もあってグローバル化が
一気に進み、私たちの国でもそれに伴い英語教育が奨励されているので、英語を
中心とした外国語の単語の直接的な使用が、抵抗なく行われるようになったとも
言えるでしょう。

更には言葉の交流がどんどん盛んになり、またその上我々は生活の中で加速度的に
時間に追われるようになって、悠長に吟味した翻訳語を作る余裕がない、とも言える
かもしれません。

いずれにしてもインスタントのカタカナ語が横行する状況の中で、少なくとも私はその
言葉が意味するところをしっかりと理解して用いるように心掛けたいと、考えています。

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