2017年2月20日月曜日

鷲田清一「折々のことば」670を読んで

2017年2月18日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」670には
耕治人の小説「そうかもしれない」から、次のことばが取り上げられています。

 そんなことはない、その瞬間はわからなくてもいいじゃないですか

作中、認知症の妻をずっと介護して来た夫が、自分が入院した時に、今は施設にいる
妻がせっかく見舞いに来ても、彼女には事態を理解出来ないのではないかと、施設の
職員の彼女を連れて来てくれる計らいに躊躇を感じた折、彼の知人が語ったことば
だそうです。

私の経験から言っても、例え認知機能が低下して、こちらが掛ける言葉がどれだけ
理解されているか覚束なくても、実際に会って、相手の手を取り、目を見て語り掛ける
ことは、その相手の心のどこかに留まるものだと、感じます。

実際にその人を目の前にして言葉を掛けることが、何よりも大切なのではないで
しょうか?

それは何も介護に限ったことではないでしょう。育児にしても、その幼い子が周囲の
ことを認識出来る以前からの触れ合いが、その子の心に蓄積され、基礎的な感情や
情操の土台を形作るということも、何かで読んだ覚えがあります。

また多少の飛躍を許してもらえれば、人の気づきや、学び、覚醒において、「その
瞬間はわからなくてもいいじゃないですか」ということは沢山あると思う。そのことを
体験して、その時には分からなくて、自分で反芻してみて、あるいは次の体験で前に
経験したことの意味が理解出来る。

そのような気づきは、手取り足取り教えてもらったことより、きっと自分の血肉になる
に違いありません。そんなことも、このことばから連想しました。

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