2017年2月10日金曜日

マーティン・スコセッシ監督映画「沈黙 サイレンス」を観て

遠藤周作のこの映画の原作はかなり若い時に読んで、もう忘れた部分も多いの
ですが、苛烈な弾圧を受ける信者たちを目の当たりにして、神の沈黙の意味を問い
続ける主人公の神父の姿が、今も脳裏に残っています。

さてこの小説をなぜあの名匠スコセッシが映画化し、今の世に何を問いかけようと
しているのか?それを知りたいというのが、私がこの映画を観に行った理由でした。

映画ではキチジローと井上筑後守のキャラクターと存在感、信仰を棄てた後の
主人公ロドリゴ神父の生き様が、神が沈黙を続ける意味を、あくまでスコセッシの
理解を通してですが、原作より分かりやすく示してくれているように、感じました。

まず一つのキーワードとして、この国でキリスト教を布教することには意味がなく、
住民にとってはかえって迷惑なことであると、筑後守が語る部分があります。

その現実を思い知らせるために、彼はこの神父の前で一般の信者を痛めつけ、
ロドリゴに背教を迫るのですが、この言い分や仕打ちは為政者の独善的な思考に
基づくものであるのは言うまでもなく、しかし当時の日本の住民の性向や、それを
前提とする封建支配体制というものの特性を、図らずも焙り出すことになっている
のも事実でしょう。

つまり住民は自然に寄り添い、支配者や宗教とも情緒的な関係でつながりながら、
日々を営んでいたとでも言いましょうか、為政者にとってはそのような日常環境に、
理路整然とした一神教のキリスト教が広がることが、大きな脅威であったのでしょう。

またキチジローは、そんな日本人がキリスト教の信仰に帰依した時の、弱さや戸惑い
を象徴的に表しているように、感じました。

苦しむ信者のために表面上の信仰を棄てたロドリゴは、神の沈黙を通して普遍的な
信仰を心に抱く術を見出したのではないでしょうか?

そして宗教的な対立が激しさを増す現代社会において、スコセッシは人々が互いに
相手を尊重し合う生き方のヒントを、この映画で示しているように、私は感じるのです。

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