2017年2月17日金曜日

漱石「吾輩は猫である」における、寒月のヴァイオリン熱に対する東風の感慨

2017年2月14日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載197では
寒月が東京に出て来る以前の若い頃に、ヴァイオリンの弾き方を習得しようとした
経緯を聞きながら、東風が感想を述べる、次の記述があります。

「「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ
人生の意義が分からないですから、先ず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って
寒月君にさっきから経験譚をきいているのです」

東風君は、かなりのロマンチストです。でも戯画化されているとはいえ、当時の
インテリ層の青年たちには、そんな西洋的教養主義の風潮があったのでしょう。

第一、恋、芸術などという観念が、この国にもたらされたのが明治以降でしょうし、
ましてやそれらを経験し、味わうことが、人間の精神の質の向上に資するなんて、
何か西洋の書物の受け売りに違いないのですから。

人間の心を彫琢するなら、明治以前ならさしずめ禅、武術、茶の湯、作法などを
習得することでしょうか?恋、芸術に比較して、道を究めるという趣きがあります。

他方今日では、より生きて行くために有用なのは、魂を磨くことではなくて、スキル
を向上させることのように、感じられます。それが証拠に、大学のカリキュラムから
教養課程をなくしたり、文科系の学部をより実践的なものに衣替えすることが、
盛んに論議されています。

この頃のせちがらい世の中では、それもある程度已むおえないのかも知れない
けれど、何か寒々しさを禁じ得ません。

ヴァイオリンやピアノのお稽古は、プロを目指す人などをのぞいては、子どもの
専売特許になっていますし、あるいは最近では、仕事が一段落した高齢の人々が
若い頃に出来なかった音楽に親しむという現象も、現れて来ているようです。

教養を積むことの低年齢化と高齢化は、私たちの社会の文化にとって、果たして
どんな影響を及ぼすのでしょうか?

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