2019年3月11日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1392を読んで

2019年3月3日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1392では
白洲正子の『お能・老木の花』から、次のことばが取り上げられています。

  動きは早くても荒くならぬよう、型は多くて
  も粗雑に流れぬよう、そのためにこのような
  重い装束をつけるのはかえって助けになる

私が若い頃に能の謡曲、仕舞いを習っていた時に、実は一度だけ師匠の好意で装束
と面を実際に着けさせてもらって稽古をしたことがあります。それらを身に着けると
あまりにも身体の自由が利かず驚かされました。

衣装はきらびやかですがごわごわとして重く、着付けるために何本もの紐できつく締め
付けられますので、身体全体を押さえつけられているような感覚になります。

面を顔に装着すると、木製の面に厚みがある上に、目の部分に穿たれた小さい穴から
外を覗く格好になるので、視界は極端に狭められて、周囲の状況はほとんど知覚出来
なくなります。

能の演者はそのような状態で、自身の舞台上の位置取りは四方の柱から見当をつけ、
謡曲や囃子を頼りに優雅に、あるいは激しく舞を舞い、シテを演じるのです。

自分で少し体験してみて、その大変さが実感として分かりました。演者は仕舞いの型は
勿論、謡曲も囃子も全てをそらんじていなければならず、一曲の能を舞うためには、
並大抵でない習練が必要です。

とても私には演者は務まらないと思ったのは当然として、翻って鑑賞をする立場からは、
能という伝統芸能の感興が、そのような制約の中から期せずして現出するものであると
感得出来たのも、事実でした。

その意味でも装束と面の体験は、私にとって貴重なものでした。

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