2017年10月2日月曜日

鷲田清一「折々のことば」886を読んで

2017年9月27日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」886では
”言い習わし”から次のことばが取り上げられています。

 腑に落ちない

身体と心が深い部分でつながっていることに、私が実感を伴って気づいたのは最近
のことです。

若い頃には思念や感情の方が先走って、身体というものは煩わしく思い通りに
ならないもの、かえって足かせとなるもののように感じられることが、ままありました。

例えば私は運動があまり得意ではなかったので、スポーツをする時には思うように
いかず、自分の身体をもどかしく感じていましたし、容姿にも劣等感を持つ部分が
あったと記憶しています。

また若さに任せて、仲間と騒ぎながら飲食する時にはついつい暴飲、暴食して、翌朝
の苦しさに後悔したり、何かに熱中してむやみに夜更かししてしまい、日中にぼおっと
して無気力な状態に陥ったことなどが思い出されます。そんな時には、自分の身体を
持てあましていたと思い当たります。

しかし、次第に歳を重ね最早若くはなくなって、身体の無理がきかなくなり、不摂生が
健康診断の数値や体形に現れるようになると、さすがに自分の健康が気になるように
なりました。更には父や身近な人の死が、身体や健康について取り上げた本に興味
を持たせることにも、なりました。

そうするうちに、健康について考えることは、自分の身体に問いかけることであり、
身体と心は密接につながっていると気付いたのだと思います。

上記のことばの示すもやもやした身体感覚が、特定の心の働きを見事にいい当てて
いることも、今なら納得することが出来ます。

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