2015年11月27日金曜日

鷲田清一著「「聴く」ことの力ー臨床哲学試論」を読んで

著者の阪神淡路大震災の体験を契機として、理不尽な苦しみにさいなまれる
人に向き合う時に、ただ「聴く」という行為が相手を癒し、ひいては自らにも
変化をもたらすということを、臨床哲学という概念を用いて明らかにしようと
する書です。

私は哲学的思考や方法論に疎いので、本書の語るところをどれだけ理解
出来たか甚だ心もとないのですが、著者の柔らかい説得力を持った語り口
から、漠然とした気づきとして、本書で展開される思考の核心には、触れる
ことが出来たように感じます。

まず臨床哲学という概念ですが、従来の哲学が門外漢から見ても、文字通り
形而上の学として、我々一般の人間が関わる社会的営みを超越した地点を
対象とする思考行為であったのに対して、少なくとも今を生きる人々に寄り添い、
そこに生起する問題を現場の人々と同じ目線で考えようとする姿勢に、好感が
持てます。哲学という学問分野においても、現代という時代に人々がより良く
生きるための方法を模索する試みが行われていることを、心強く感じました。

さてここからは、本書によって触発された「聴く」ことに対する私の感慨ですが、
若い頃の私は内気で、赤面癖があり、見知らぬ人、異性と一対一で向き合って
話すことが苦手でした。これは相手にとって自分がどのように見えるか、
あるいは自分の話す言葉に相手がどのような感情を抱くかということに過剰
反応して、冷静な自己を保てなかったということであったと思います。

その要因としては自分自身に自信がなかったこと、相手にどう接すべきかを
知らなかったことに集約されるのでしょうが、つまり自分というものが可愛く、
そんな自分を守ろうとしたのだと感じます。その時点において、私には自分の
問題で手いっぱいで、とても人の話を親身になって聞く余裕はありませんでした。

その後長い社会人生活を営むなかで、一応社会の中での自分の立ち位置も
確定し、それに従って役割の範囲内で自分の言動にある程度自信を持ち、
一対一で相手を戸惑わせず対応が出来るようになりました。そしてそうなって
初めて、相手の話をじっくりと聞く余裕が出来たのです。

少し論理はずれるかも知れませんが、鷲田が説く「聴く」は、私の個人的な
この体験に対応してはいないでしょうか?人の根源的な苦しみに寄り添う
ためには、「聴く」人の心の持ち方が重要になるでしょう。そのためにはもちろん、
相手を思いやる気持ちが不可欠ですが、それは同時に利己心を捨て、相手を
信じるために自分を信じる虚心坦懐の姿勢が、必要であるでしょう。

このような心の在り方、日頃の自分に照らし合わせても、なかなか至難のことと
感じながら、そうあるべき指針として、確実に心に響くものがあると思いました。

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