2015年11月25日水曜日

鷲田清一「折々のことば」230を読んで

2015年11月23日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」230に
哲学者マックス・シェーラーの論考「悔恨と再生」から引いた次のことばが
あります。

  (悔恨の)その光によって、悔恨することなければ思い出さなかった
 沢山のものごとを初めて具象的に思い出すことができる

最初、まったく意味が分かりませんでした。悔恨というのは、とにかく負の
イメージ。それがまさか光を放つなんて!

しかし次に続く解説で、ー悔いは後ろ向きの悲嘆や後悔ではないーと
いうなら、おぼろげながらこのことばの輪郭も、浮かび上がって来ます。

悔いるということは、とかく私たちの現代社会ではマイナスなものとして
受け取られ勝ちです。未来に向けて希望を持ち、積極的で肯定的な
物言いがもてはやされます。その結果ともすれば、反省や省察といった
自らの心の中に深く沈潜する姿勢が、おざなりにされやすいように感じ
られます。

でも実は、感情的にならず、冷静に、客観的に振り返ることが出来るなら、
悔恨の対象は自身が一度経験、もしくは思考を巡らせた事象であるだけに、
豊かな示唆や前回には気付かなかった新たな発見を、与えてくれるとも
考えられます。

時には内省的であること。現代に生きる私たちには、特に必要なことでは
ないでしょうか?

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