2021年3月16日火曜日
山折哲雄の朝日新聞朝刊刊頭エッセーを読んで
2021年3月2日付け朝日新聞朝刊では、本号が創刊5万号に当たる記念号のため、刊頭に哲学者
山折哲雄のエッセーが寄せられていて、その文章に感銘を受けたので、ここに取り上げてみ
ます。
文中筆者は、この記念日が宇宙探査機「はやぶさ2」の地球への帰還と重なったことから、-
無限の情報を運ぶ新聞と、はるかな小惑星から微量の砂を運ぶ探査機ーその二つの物語に誘わ
れたためか、明治の文豪森鴎外が書いたエッセー「空車(むなぐるま)」の初夢を見た、と
いいます。
荷物を何一つのせない大八車を、屈強な男が馬の口をとって引いていく姿に接すると、職業、
身分を問わず全ての者が道を譲り、自分もこれに出会うと目で迎え、送ることを禁じ得ない、
と鴎外は書いているそうです。
ここでいう「空車」は、何を指すのか?正に何もない空(から)を運んでいるのか?それとも、
空なればこそ、無限のものを運ぶ可能性を秘めているのか?
私には、空と無限のものは、表裏一体のように感じられました。つまり、空なればこそ、無限
のものを運ぶ可能性を有し、逆に無限に見えるものでも、その本質は空である、ということで
はないかと、思うのです。
この地球上、いや宇宙も含めて全てのものは、移ろい行くもの。それだからこそ、私たちは
そこに永遠の真理を究めようとし、その行為自体が尊い。それゆえに私たちは空車に、畏怖の
念を抱くのではないでしょうか?
筆者が、社会的真実の追求や、科学的真理の探究に空車を重ね合わせたのは、それゆえでは
ないかと、私は感じました。
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