2015年2月22日日曜日

漱石「三四郎」の中の、新聞報道に例えた世相の考察

2015年2月18日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第九十四回)に、広田先生の宅に先客として訪れていた柔道の
学士の男が、自らが中学校の教員を辞めた経緯と窮状を語るのを
聞いても、聞き手の先生と三四郎が一向に、真に同情する気に
ならない心の有り様を考察して、三四郎が感慨を述べる次の記述が
あります。

「なぜというと、現代人は事実を好むが、事実に伴う情操は切棄る
習慣である。切棄なければならないほど世間が切迫しているのだから
仕方がない。その証拠には新聞を見ると分かる。新聞の社会記事は
十の九まで悲劇である。けれども我々はこの悲劇を悲劇として味わう
余裕がない。ただ事実の報道として読むだけである。」

漱石はこの例えに仮託して、当時の人々の他人への無関心と薄情を
嘆いて見せているのでしょう。では、現代の私たちの社会ではどうで
しょうか?

高度資本主義の発達と、核家族化に伴って、他者は無論、家族との絆も
ますます希薄になって来ています。グローバル化や情報社会化で、
私たちを取り巻く世間はずい分と広がったようで、実は個々の心に
防御のための厚い壁を作っているようにも見えます。

そのような世相では、新聞報道はどのように受け取られているのでしょう。
私たちは、あまりにも目まぐるしく変化する社会の動きに振り回され、
また、許容量を超えた情報の洪水に、じっくりと物事を考える余裕を失って
いるようにも感じます。

その結果として、目新しくインパクトのある記事(情報)を求め、なおさら
あたふたとする。どうやら漱石の時代より、さらに症状は進行している
ようです。

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