2024年10月23日水曜日
村上春樹著「風の歌を聴け」を読んで
前から気になっていた、村上春樹のデビュー作を読みました。ほとんど予備知識を仕込まずに読んでので、
幸いにもこの小説自体については、発表当時に近い感覚で読むことが出来たのではないでしょうか?
例えば、冒頭から登場する、主人公「僕」が敬愛する作家デレク・ハートフィールドですが、まんまと
実在の小説家と思い込んでこの小説を読み始め、末尾に添えられた”ハートフィールド再び・・・(あと
がきにかえて)”で、その思いを補強されて読了しました。
とにかく、そのような気分で読み進めると、中盤までは自意識ばかり強い、生意気な若者の、それでいて
青春期にしては消極的な生き方に、じれったさと、不快なものを感じました。
しかし終盤にさしかかり、これも著者の分身と思しい友人「鼠」が、自身が書いた小説について語る場面。
正にこの小説の題名もここから取られているのですが、小説家村上春樹の自ら能動的に働きかけるのでは
なく、開いた胸襟に飛び込んで来るあらゆるものを包摂して、物語を紡いで行く、小説作法の原点が語られ
ているようで、感銘を受けました。やはりこの小説は著者にとっても、それ以降の小説創作の指標となった
のではないでしょうか?
それ以外で村上の小説らしいと感じたところは、本作が「僕」の帰省先の阪神間の町を舞台にしているらし
いのですが、山を背景にした港町というその地理的条件が語られるだけで、地域特有の雰囲気や匂いが、
全然描かれていないということです。つまり逆にこの小説の舞台が、湘南の海岸であっても、アメリカの
ウエストコーストであっても、一向に差し支えないと思われます。それだけこの物語が、内面の世界を取り
扱っているということでしょう。
さて、読後デレク・ハートフィールドが虚構の人物であることを初めて知って、私は著者がこの作品を構築
する前提として、実在感のある架空の人物を生み出した理由を考えました。物語自体が一瞬の夢であること
を示したかったのか?あるいは読者を欺くことによって、小説というものが虚構の企みであることを強調し
たかったのか?
いずれにしても、村上春樹の小説作法には、ブラックボックスのような全ての事物を呑み込む空間を設定し
て、その中から物語が立ち現れるような、技巧が凝らされているように思われます。恐らくこの設定も、
その手段の一つであったのではないでしょうか?
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