2024年10月31日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3190を読んで

2024年8月30日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3190では 仏文学者生島遼一の『鴨涯日日』から、友人の中国文学者吉川幸次郎の次の言葉が取り上げられ ています。    「無用の事を為さずんば何をもって有限     の生を遣らん」 吉川から著書が届き、礼状を出したら上記の言葉を含む返事が来た、ということのようです。 この場合鷲田が記すように、「無用」は謙遜であっても、この心構えは敬服に値すると思います。 私たちは、日々の雑用、雑念にかまけて、ついつい人生が有限であることを忘れがちです。その 結果、瞬時の感情や短慮に動かされて、いたずらに右往左往してしまうのではないでしょうか? ここに言う「無用」は本質的に無駄なことではなくて、熟慮の上に損得を越えて為すべきことで しょう。それは、人生が限られたものであるということを十分に自覚した上に、目先の利益に 囚われず為すべきことであると考えます。 そのような心構えで日々を過ごせれば、きっと自分の人生の最後を迎えたときに、充実した生で あったと、思い返せるに違いありません。

2024年10月23日水曜日

村上春樹著「風の歌を聴け」を読んで

前から気になっていた、村上春樹のデビュー作を読みました。ほとんど予備知識を仕込まずに読んでので、 幸いにもこの小説自体については、発表当時に近い感覚で読むことが出来たのではないでしょうか? 例えば、冒頭から登場する、主人公「僕」が敬愛する作家デレク・ハートフィールドですが、まんまと 実在の小説家と思い込んでこの小説を読み始め、末尾に添えられた”ハートフィールド再び・・・(あと がきにかえて)”で、その思いを補強されて読了しました。 とにかく、そのような気分で読み進めると、中盤までは自意識ばかり強い、生意気な若者の、それでいて 青春期にしては消極的な生き方に、じれったさと、不快なものを感じました。 しかし終盤にさしかかり、これも著者の分身と思しい友人「鼠」が、自身が書いた小説について語る場面。 正にこの小説の題名もここから取られているのですが、小説家村上春樹の自ら能動的に働きかけるのでは なく、開いた胸襟に飛び込んで来るあらゆるものを包摂して、物語を紡いで行く、小説作法の原点が語られ ているようで、感銘を受けました。やはりこの小説は著者にとっても、それ以降の小説創作の指標となった のではないでしょうか? それ以外で村上の小説らしいと感じたところは、本作が「僕」の帰省先の阪神間の町を舞台にしているらし いのですが、山を背景にした港町というその地理的条件が語られるだけで、地域特有の雰囲気や匂いが、 全然描かれていないということです。つまり逆にこの小説の舞台が、湘南の海岸であっても、アメリカの ウエストコーストであっても、一向に差し支えないと思われます。それだけこの物語が、内面の世界を取り 扱っているということでしょう。 さて、読後デレク・ハートフィールドが虚構の人物であることを初めて知って、私は著者がこの作品を構築 する前提として、実在感のある架空の人物を生み出した理由を考えました。物語自体が一瞬の夢であること を示したかったのか?あるいは読者を欺くことによって、小説というものが虚構の企みであることを強調し たかったのか? いずれにしても、村上春樹の小説作法には、ブラックボックスのような全ての事物を呑み込む空間を設定し て、その中から物語が立ち現れるような、技巧が凝らされているように思われます。恐らくこの設定も、 その手段の一つであったのではないでしょうか?

2024年10月17日木曜日

京都高島屋グランドホール「第71回日本伝統工芸展京都展」を観て

毎年、日本伝統工芸展は楽しみに拝見していますが、今回特に感じるところがあったので、このブログで 取り上げてみました。いつものように、私が興味を持っている染織部門につて、感想を書いてみます。 今回特に感じたのは、全体のイメージとして、ほとんどの作品が極力無駄をそぎ落とした洗練やモダンさ、 つまり引き算的な美学に傾いている傾向があると、思われたことです。 勿論、織物の作品は、制作上の制約によって、幾何学的な模様表現になり勝ちであるのは、致し方ない ことです。それでも配色や、手織り的な味を強調するような、素朴な表現も可能だとは思われます。 また友禅染の作品では、細かく鋭い糸目の線が強調されて、技巧としての巧みさや、労力をふんだんに 掛けていることは十分に伝わってきますが、作品の柔らかさ、豊穣さという点では、何か物足りなく 感じられました。 長引く不況、生活習慣の変化によって、伝統工芸品に対する一般の人々の見る目が厳しくなっている現在、 そのような環境での物作りは、大変な困難を伴うものだと、私のような和装業界の片隅で活動するものに も、ひしひしと感じられます。 でもそんな時代だからこそ、手工芸品を制作する喜びや、手仕事ならではの素朴さ、些事に囚われない おおらかさが、それを手にして、愛用する人に、十分に伝わる作品があってもいいのではないでしょうか? 生意気にも、そんなことを感じたので、記してみました。

2024年10月10日木曜日

2024年10月度「龍池町つくり委員会」開催

10月8日に、10月度の「町つくり委員会」が開催されました。 本日の議題はまず、鷹山日和神楽の龍池学区誘致について。本日の議題として取り上げるに先立ち、まず町作り 委員でもあり、鷹山囃子方でも重要な役を担われる森さんに、改めての誘致の可能性についてお尋ねしたところ、 前回誘致の可否を龍池自治連合会理事会で議題として取り上げたときに、誘致に慎重な姿勢を示された、学区内 の山鉾町の役員の方の賛同があれば可能であろうという言質を得たので、私がその山鉾町である役行者山町の 世話役の方にお目にかかって意見を聞いたところ、前回も誘致反対が本意では無く、環境が整えば話を進めれば いいのではないかというお返事だったので、当委員会で改めて取り上げることにした次第です。 そのような経緯から、今日の委員会には森さんにも出席頂き、経緯を説明の上、改めて誘致のお願いをしました。 それに先立ち、中谷委員長より、鷹山の日和神楽が当学区を通行することは、学区の活性化に寄与するに違い ないが、そのような決定をすることが鷹山側にとっても有益であるようにしなければならない。その点も考慮して 慎重に話を進めるべきだ、という意見が出て、それに従いこの企画を成功させるためにじっくりと取り組むことに なりました。 具体的には、当学区の夏祭りの催しとして、鷹山の囃子方に参加してもらうとか、鷹山のメンバーを招いて、大原 郊外学舎でバーベキューパーティーを催すなどの行事を企画して、親睦を深める機会を作るということなどが例と して挙げられます。また学区内でも、各町会長も集まられる拡大理事会で、日和神楽誘致の意義を分かりやすく 説明して、学区の総意としての理解を深めることも必要です。これから当委員会で、これらを円滑に進める方策に ついて検討していきたいと考えます。 南先生の京都外大グループの大原学舎での催事企画については、まだ具体的な日程は決まっていませんが、近い タイミングで、「青空学級」という催しを開催するため、準備を進めていく。そのために案内の学区内全戸配布や、 告知ポスターの掲示のために、町つくり委員の協力をお願いしたいという、お話がありました。できる限り協力を したいと思います。 マンガミュージアム事務局からは、北館の雨漏り対策として、10月15日から18日まで、ミュージアムを休館 して保修作業を行うという報告がありました。

2024年10月1日火曜日

河合隼雄著「対話する人間」を読んで

平易で分かりやすい言葉で、人の心の不思議や、それが人間関係に及ぼす影響を、かつて私に知らせて くれた、心理学者で、臨床心理士・河合隼雄の未読の書籍を、刊行から約30年を経て読みました。 見覚えのある懐かしい語り口に温かさを感じながら、その内容においては、30年の時間を経ても不変の ものと、現在に至っては、日本人の生活環境が更に複雑になっていることを、実感させられました。 本書は、彼がメディア等の依頼で執筆した文章や、講演の内容をまとめたものですが、相変わらず深い 洞察力を有し、私にとっても示唆に富むものが多くありました。 特に感銘を受けたものをここに記すると、まず30年前のこの当時において、日本人の父親の権威喪失の 原因が記されています。つまり、それ以前の伝統的な家父長制大家族から核家族化が進むと、父親は 敬うべきものであるという、制度としての重石が次第になくなって、慣習として護られていた権威が 剥げ落ちます。 更に、時代の急激な変化は、父親が子供に対して保っていた、人生経験による優位を変容させ、つまり、 技術革新が、親より子の方が最新の知識を有する現象を生み出し、結果として、親の権威を薄めさせ ます。そして、労働形態のサラリーマン化が進むと、父親が働く姿を直接子供が見る機会が益々少なく なり、これも父親の権威喪失を促進するというのです。 この傾向は、両親の不和、子供の登校拒否、家庭内暴力などの家族問題に、大きな影を落としていたの です。 だが現在この記述を読むと、当時の一般的な家庭の抱える問題の、適確な説明として納得させられると 共に、今日は更に家族の分断が進んで、孤立する子供が増加しているように推察され、30年前の問題は、 なお深刻度を増しているように、思われます。 また河合が本書を刊行した頃は、有名人のスキャンダルを取り上げる写真誌が人気で、発行部数を競っ ていたようで、この社会問題の深層心理を、分析する文章も記載されていますが、これらの写真誌の 売り物記事の特徴は、盗撮まがいの迫真性を持った写真に、責任をはぐらかした無記名の野次馬的な 記事を添えていて、読者の無責任な好奇心を煽る仕掛けになっています。 そして読者たる大衆は、有名人の不祥事を知らされて義憤を抱くことによって、正義感を満たされ、 ストレスの解消にもつなげられます。 この写真誌を巡る心理は、今日のSNSの普及によって、規模においても、強度においても、圧倒的に 増強されていると、思われます。