2025年1月27日月曜日

五百旗頭真著「首相たちの新日本」を読んで

先般亡くなった政治学者で歴史家の著者による、第二次世界大戦の敗戦から占領統治の終わりまで、我が国の 五人の首相による、六代の内閣の業績を丹念に辿る、政治史の書です。 今日の日本では、バブル崩壊後の不況の後遺症をなお引きずりながら、新型コロナによるパンデミック後の 激しい物価高に見舞われる中で、自民党の圧倒的過半数を占める内閣は、政治的混迷を深めています。 国土が焦土と化した敗戦から我が国が立ち直り、後には高度経済成長という輝かしい復興を遂げるに至る過程 で、政治的に如何なる努力が行われたかということを知ることは、今日の政治状況を考えても、何らかの意味 があるのではないかと思い、本書を手に取りました。 まず戦後生まれの私には、敗戦直後の混乱は想像もつきませんが、敗戦二日後に首相に就任した東久邇宮稔彦 は、いつ敗戦を認めない軍人のテロによって命を落とすとも限らない覚悟で、この重責を引き受けたといいま す。その意味でも、彼が皇族で軍人であるという経歴は、反対派を抑える欠かすことの出来ない要件であった でしょいう。この描写を読んで私は、敗戦直後の息詰まる緊張感をひしひしと感じると共に、軍国主義の狂信 というこの国をむしばんでいた病理を実感しました。 東久邇内閣は、首相の政治的経験不足もあって直に崩壊しましたが、敗戦の混乱を治めたところに、大きな 価値があると感じられました。 次の幣原内閣は、戦前の良心的外交官であった彼が、高齢と病身を押して首相に就き、GHQにも評価されて、 経済的窮乏の中で援助を引き出すことが出来ました。幣原首相の業績の中で興味深いのは、彼が戦前軍部の 横暴に抵抗したにも関わらず、旧憲法の部分的修正で戦後も事足りると考えていたことです。結局GHQの圧力で、 憲法改正時の当事者の内閣となったところが興味深いです。 短い第一次吉田内閣を経て、片山、芦田の中道左派内閣は、GHQ民生局の後ろ盾がありながら、首相の統率力 不足で早くに崩壊しました。我が国の現代政治における中道左派の立ち位置が、この頃から変わらないことには 野党勢力の不甲斐なさを感じます。 そして満を持して登場したのが、保守党の第二次吉田内閣です。吉田首相は堂々とGHQとも渡り合い、講和条約 を成立させて、占領の終了と後の経済発展の礎を築いたのです。 このように見ていくと、民主主義政治においては、健全な政権交代が発展をもたらすと感じられます。今日の 日本の政治状況は、如何なるものでしょうか? (2024年7月26日に記しました。)

2025年1月23日木曜日

2025年1月度「龍池町つくり委員会」開催

1月14日に、1月度の「龍池町つくり委員会」が開催されました。前年12月は、年末ということで 休止したので、2ヶ月ぶりの開催と言うことになります。 ところが今回は、京都外大の南先生と澤野委員がお休みされたのと、京都外大グループの大原学舎での 活動と鷹山日和神楽の誘致活動に特に進展がなかったので、学区及び自治会活動の現状の検証が中心と なりました。 まず、マンガミュージアム事務局から、マンホールトイレの設置がほぼ完了したとの報告があり、それ に伴って、近いうちに自主防災会役員によるこの設備の使い方の研修会を開くことの必要性が確認され ました。 次に中谷委員長から、11月度の委員会でも提起された、災害避難時の高齢者のミュージアムへの入り 口として、両替町側からのルートの整備の必要性の話が出ました。これは、ミュージアムの立地と構造 状費用もかかり、簡単に改善出来ることではないので、引き続き検討課題ということになりました。 次に京都外大グループの出席者の方から、大原学舎の利用規則について質問があり、原則営利目的以外 ということが確認され、また利用許可は、長年担って頂いている、前町つくり委員の寺村さんに求める ということが示されましたが、これについても中谷委員長から、現在学区に居住していない人物が全権 的このような役割を担うのは適切であるか、という問題提起がありました。 ただ寺村さんには、長年の実績があり、他の役員にも適任の人物が見当たらないので、当面はこの体制 を続けるしかないと思われます。 最後に寺井委員より、当委員会が後援している「歌声サロン」を、町つくり委員会がサポートする必要 性があるのかという問題提起があり、その背景としては、参加者の中の学区民の割合が少ないという ことが挙げられました。この活動は確かに高齢者にとって有意義ではありますが、当委員会でポスター 掲示や、回覧用のチラシの制作などの活動をしているにも関わらず、なかなか学区民の参加者が増え ない現状があります。学区民の参加を促進する、新たな施策が必要かも知れません。 今回の委員会の話題は、ほとんど前向きなものではなく、私自身次回以降は、もっと建設的な議題で 意見の交換が出来ればと考えています。

2025年1月17日金曜日

「鷲田清一折々のことば」3088を読んで

2024年5月17日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3088では 免疫学者・多田富雄の随筆集『独酌余滴』から、次の言葉が取り上げられています。    迷惑をかけたり、かけられたりしなが    ら、濃厚で味わい深い人間関係が作られ    てきたのだ。 鷲田の解説文にもあるように、私たちは小さいときから、親に人に迷惑を掛けない人間に なりなさいと言われて育ちますが、人生経験で印象に残っているのは、人に迷惑を掛けた 失敗体験であることが多いように思われます。 それだけ私たちは失敗をする者であり、そのような失敗こそが、忘れがたく心に残るもの なのでしょう。 また人に迷惑を掛けられたことも、その時は腹立たしいのですが、よほどの実害がないこ とは、後々にはいい思い出になったり、その人の人となりを知るきっかけになったり、 するものです。 要するに、出来るだけ他人に迷惑を掛けないように心がけながら、でも往々に人は失敗す るものだと達観して、ゆとりを持って物事に取り組み、また、他人に対しても失敗や迷惑 を掛けられたことを大目に見るような、寛容な心を持てれば、この世も生きやすいという ことでしょう。 でも自分の失敗も、他人に迷惑を掛けられることもなかなか許せない。つくづく人間は、 業の深い生き物です。

2025年1月8日水曜日

吉本隆明著「良寛」を読んで

名利や権力を求めず、襤褸をまとい、郷里近くの荒ら屋に隠棲しながら、時に村の子供と手鞠に興じ、托鉢 三昧の生涯を送った良寛も、気鋭の思想家吉本隆明によると、ラジカルな先鋭思想の実践者の相貌が浮かび 上がることになります。 そう言われれば、それはそうでしょう。僧侶でありつつ優れた詩歌の作り手であった彼が、自らの生き方に 思想的裏付けを求めないはずがないからです。 道元に憧れ曹洞宗に入門、『正法眼蔵』を学びながら、大忍国仙という直接の師を得ます。良寛の僧侶とし ての思想を知るには、常不軽菩薩への傾倒が重要であると、吉本は語ります。この菩薩はいつも人を軽んじ ない菩薩で、人間は誰でも菩薩あるいは仏になれる存在だから、自分は何時でも何処でも誰にでも、礼拝す ると言うのです。 従って、礼拝された者たちの方がかえって、馬鹿にするなと怒ったり、罵ったりしますが、そんな反応に一 切お構いなく、ただひたすら、どんあ相手に出会っても礼拝するといいます。また良寛は、人から揮毫を頼 まれると、『正法眼蔵』のどうしたら菩薩になれるかを示す、「菩提薩捶四摂法」の条を書きましたが、そ の中でも彼は特に、「愛語」の文章を好んだといいます。 そしてこの「愛語」というのは、普段乱暴な言葉や憎む言葉を吐かないということだそうです。つまり愛す るとか、慈悲の心を持つとか、そういう言葉だけを口にして、憎しみとか人を傷つける言葉は使いません。 彼はこの戒めを徹底して、厳しく自らを律していたといいます。 余談になりますが、私自身個人的にも若い頃、自分の言葉が人を傷つけないかいつもびくびくしていて、そ れが元で赤面恐怖に悩まされたことがあります。従って、この良寛の気質に共感を覚えるところがありまし た。 このような彼の僧侶としての心のあり方は、国仙師亡き後、良寛を寺の後継者争いから排除し、郷里に帰り 自覚的に托鉢を用いた、隠遁生活を送らせることになります。 しかし彼の残した詩歌には、諦観を越えた自在の境地、清貧の中に風物を味わう余裕や遊び心があり、今な お私たちを魅了します。そこには、自身の立つ位置を低く保つことによって生まれた、アジア的な慈悲心が あると、私は感じました。