2017年5月31日水曜日

鷲田清一「折々のことば」766を読んで

2017年5月27日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」766では
旋盤工でもあった作家小関智弘の「どっこい大田の工匠たち」から、次のことばが
取り上げられています。

 野に雑草という名の草がないように、工場には雑用という名の仕事はない

このことばを読んで、私は手前味噌ながら、すぐに私たちの小規模な自営業の仕事を
思い浮かべました。

私も白生地の販売は勿論ですが、生地の仕入、検品、切売するための検尺及び墨うち、
お染を承った場合には、色選び、各職人さんの所へ生地を持って回る悉皆などを自分で
行います。さらに請求書の発行など、経理上の顧客管理も担当しています。

また店と住居が京町家で隣接しているので、日々の店の神棚や先祖の仏壇のお守、
休日には坪庭の植木の手入れや日頃行き届かない部分の掃除、またお盆、正月など
季節の節目にはその設えなどを、家族の助けを借りて行います。

考えてみれば直接商売に結び付かないものも含めて、次から次へと色々な仕事があって、
きっちりとやろうと思えばきりがないように感じますが、適当に折り合いを付けて日常を
過ごしています。

店の商売においても、多岐に渉る部分を自分で担当している訳ですが、そのお蔭で
仕事の全体像を把握出来、また私の手助けをしてくれる従業員の働きも、直に目にする
ことが出来るので、皆の力で店を切り盛りしていることが実感できます。

家に係わる諸事も、煩雑といえばその通りですが、例年日々変わらず繰り返している
ことが、生きているということだと感じられます。

いずれにせよ決して合理的で、効率的な生き方ではありませんが、日々無事に過ごして
いることが、有難く感じられる人生ではあると、思っています。


0 件のコメント:

コメントを投稿